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第5章 戦時下の外国語教育

 世界恐慌(1929年)から戦争へと時代が傾くにつれ、本学関係者もまた戦争に駆り出されていきます。とくに1941年以降、学生の在学?修業年限は短縮され、1943年には文科系学生に対する徴兵猶予が停止されます。結果、1941 -43年度には入学者の8割を超える学生が「出陣学徒」として戦場に赴きます。

 その後、軍国体制下の1944年、東京外国語学校は修業年限3年の東京外事専門学校として改編されます。

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【左】「長恨!通州の惨事」『外語同窓會誌』 (第35号、1937年9月1日)
【中央】1944(昭和19)年11月18日チャンドラ?ボース氏による特別講演
【右】竹平町校舎の掲示板(「ABRE YVERAS TU JUVENTUD」(1940年代アルバム))

◆史料『昭和十九年八月起仝廿四年十二月迠掲示及教官通知案』
が伝える学生生活の様子

 1943年10月、文科系学生の徴兵猶予が廃止されると、「出陣学徒」として学生たちは戦地に向かいます。また残った学生たちも「学徒動員」により軍需工場に赴きます。1944年には入学した第1学年を除き、ほとんど授業が行われなくなり、1945年7月には、それまで授業が行われていた第1学年についても、三菱製鋼において勤労動員に従事させることが決定されます。

 史料にはこの時の勤労動員と授業の様子が克明に記録されています。1945年7月4日、三菱製鋼において第1学年の学生には勤労動員のため入所式が行われ、9日から全員を「甲班」?「乙班」に分け、隔週交代で各班に授業と勤労動員が実施されました。授業についても、教官に対して「授業期間ハ約三ヶ月ノ予定ニツキ殊ニ語学授業ニ於テハ連成実用ヲ旨トセラレ度シ」と、短期間での速成が求められました。

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『昭和十九年八月起仝廿四年十二月迠
掲示及教官通知案』 (1944-1949年)

◆戦禍に失われた音声学実験室

 東京外国語学校には世界的な研究成果を誇った音声学実験室がありました。責任者を務めた千葉勉は、音声学研究に物理学の導入を進め、実験室には当時世界最先端の技術水準の機材が並んでいました。実験室において1934年から1939年に進められた実験の成果は、『母音論』 (The Vowel, Its Nature and Structure. Tokyo-Kaiseikan,1941)としてまとめられました。同書は、英語で出版され、言語学?音声学の古典とされています。

 しかし、この実験室は、戦局の悪化に伴い、「昭和十九年には、東京外語が強制疎開で一ツ橋内から巣鴨のさきの西ヶ原へ移転することになり、折角先生が苦心して作られた防音室をとりこわし、レントゲンは分解して西ヶ原に運んだ。そしてそのまま昭和二十年四月十三日に焼けてしまって、一物をもとどめなかった」とされ、戦禍により失われてしまいました。

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東京外国語学校音声学実験室において
千葉勉と学生たち (1930年頃)
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