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猫と音楽と文学と:加藤雄二教授(総合国際学研究院、アメリカ文学研究)インタビュー

研究室を訪ねてみよう!

「自由の国」アメリカ。アメリカという国の枕詞を考えるとしたら、みなさんは何を思い浮かべますか? 日本において「自由」というイメージが色濃いこの国ですが、実はこの言葉の使用には慎重にならなければならない理由があります。例えば、近年盛り上がったBLM運動は黒人の社会的な権利向上に大きな影響を与えたといえますが、その一方でまだ黒人差別が根強く残っていることを裏付ける運動でもありました。自由、そして平等———

今回お話を伺ったのは、本学大学院総合国際学研究院の加藤雄二教授です。アメリカ文学研究を専門とする加藤先生。アメリカとは、そして多様性が叫ばれる現代で学生に求められる姿勢とは一体何か。本インタビューを通して先生の生い立ちから、現代のアメリカに対する見解まで数多くのお話をお聞かせいただきました。

取材担当:堀 詩(ほり うた)言語文化学部 英語専攻2年、広報マネジメント?オフィス学生記者

加藤先生のご紹介

―――研究について詳しくお伺いする前に、まず初めに先生ご自身について、いろいろと質問させていただきます。お生まれや出身校は。

生まれは仙台ですが、1歳の頃に東京に引っ越しました。その後さらに埼玉県に移り、川越高校を卒業したのち東京大学に進学しました。

―――川越高校ですか、本学にもたくさんの後輩がいそうですね。大学卒業後はどのような進路を辿られたのですか。

東京大学大学院を卒業した後に東大文学部の助手を2年間務め、本学名誉教授の故志村正雄先生に声をかけていただいたことをきっかけに東京外大に助手として赴任し、お休みをいただいて、SUNY Buffalo (ニューヨーク州立大学バッファロー校)に留学しました。そこでは当時日本ではあまり盛んではなかった批評理論を中心に学びました。

―――学生時代のことについては後ほどお伺いできたらと思います。その後は。

1997年頃からゼミを担当するようになりました。日本では比較文学や日本文学研究も行い、海外の村上春樹の専門家とコンタクトを取りながら仕事を進めました。それから約2年後、UC Irvine(カリフォルニア大学アーバイン校)に客員研究員として派遣され、批評理論についてさらに研究を行いました。最近の活動では、2022年に本学出版会発行の1『ブラック?ライヴズ?マターから学ぶ アメリカからグローバル世界へ』、『地球の音楽』という書籍に寄稿させていただきました。

猫と音楽。人生に欠かせない二つの鍵

―――続いて、先生のプライベートについてお聞かせください。先生が日課にしていることはありますか。

猫と遊ぶことや楽器を演奏することです。実は僕は猫がとても好きなんです。どれだけ忙しくても、家にいる2匹の猫を毎日可愛がる時間を作っています。三毛猫とクリーム色の猫なんですよ。また僕の仕事の文学研究、そして授業やゼミの準備にはかなり時間がかかります。ですから基本的には書斎に籠って仕事をしていることが多いのですが、たまに腰を伸ばしたくなる時はギターを弾いたり、散歩をしたりして気分転換をしています。今でもオーケストラでクラシックを演奏しますし、時々ジャズをやったりもします。

―――ほかにご趣味などは。

猫と音楽の他には、車がかなり好きですね。今はビートルという古い車に乗っているのですが、何というか、「あまり現代的ではない」車に乗って走ることが好きです。あとこれは趣味と言えるかはわかりませんがアメリカにはよく行きます。研究のための時もあれば、単に旅行で足を運ぶこともあり割と頻繁に訪れていると思います。

音楽と文学に溢れた学生生活―当時描いた将来の夢

―――では、学生時代について質問させていただきます。当時はまっていたことはありますか。

読書と音楽です。小学生の時にトランペットを始め、それ以降音楽室でたくさん練習し、サックスやクラリネットなどの管楽器はある程度吹くことができるようになりました。3歳から柔道をやっていたので中学校でも柔道部に入ったのですが、いろいろあって最終的には吹奏楽部の部長になってしまったということもありました。また当時、僕の友だちにギターの天才がいて、彼からギターを叩きこまれ半ば強制的にバンドも組んでいました。高校時代にはトランペットでアンサンブル?コンテストに出場するなど音楽に打ち込んでいましたが、僕は音大志望ではなかったので17歳頃に一旦音楽活動を控え、文学に専念するようになりました。大学生になってから、もっと言えば今でも、良い気分転換として音楽と親しんでいます。

―――先生は長い間音楽に親しまれてきたのですね。学生時代はどのような生活を送っていたのでしょうか。

やはり読書と音楽が中心の生活でした。楽器の練習や読書のために高校時代の睡眠時間は毎日3時間だったくらいです。読書経験については、中学校までに、日本の純文学を網羅的に読み、高校生になってから英米文学に触れるようになりました。翻訳で読むこともあれば、英語で読むこともありました。特に記憶に残っているのはヘミングウェイの『The Sun Also Rises』やサリンジャーの『The Catcher in the Rye』、エミリー?ブロンテの『Wuthering Heights』ですね。シェイクスピアの作品もこの頃読みました。今でも研究をしているメルヴィル作品との出会い、そしてエドガー?アラン?ポーの全集を読んだのもこの頃でした。大学で黒人作家たちのインスピレーションになった作家、ウィリアム?フォークナーに圧倒され、ポーやメルヴィルそしてフォークナーの作品を中心に研究するようになりました。英語自体は小学校4年生の時に塾で学び始めたのですが、成長するにつれ抱いた海外文学への興味がより一層英語学習に打ち込むきっかけになったと思います。

―――もし、教員になっていなかったらどうされていたと思いますか。

高校時代から漠然と文学者になりたい、という思いを抱いていたと記憶しています。最初は翻訳に興味があったのですが、翻訳できる=内容が理解できている、という公式が必ずしも成り立たないということに気が付いてしまい…それなら文学そのものを研究しようという思いになりました。ですから、基本的に研究者以外の選択肢はあまり考えられなかったといえます。でも強いて言うとしたら、作家には憧れがありました。元々「言葉」への強い興味があったので創作することにも心を惹かれていましたが、やはり芸術家というものは良い意味で極端な人がなるものだと思います。もし僕がそのような極端さを持っていたら作家や詩人になっていたかもしれませんが、結果的に僕は自分で書くよりも研究する方が合っていたようです。

アメリカ文学作品。そして研究を通じて思うこと

―――さて、先生のご研究について詳しく質問させていただきます。まずは専門分野について教えてください。

アメリカの小説全般が専門です。ウィリアム?フォークナーなどの20世紀アメリカのアングロ=アメリカン?モダニズムの作家やメルヴィル、ポーなどの19世紀アメリカの古典作家に焦点を当て研究をしています。文学研究に加え批評理論もテーマの一つです。

―――先生がこの分野に興味をもったきっかけは。

現在僕は批評理論やアメリカ小説を研究の中心としていますが、そもそも文学に興味を持ったきっかけは7歳頃です。当時起こった衝撃的な事件、それは三島由紀夫そして川端康成の自殺でした。日本中を騒がせた2人の死は、幼いながら僕にとっても大きな意味を持ち、文学をしている人間は一体どのようなことを考えどのような世界が見えているのだろう、という興味を抱くようになりました。家に日本文学全集や世界文学全集があり、比較的文学に触れやすい環境で育ったことも一つの理由かもしれません。

―――研究されている内容について具体的に教えていただけますか。

批評理論の研究、それに基づくアメリカ文学作品の読解を中心に行っています。第一に、批評理論は英語圏、特にアメリカでは現代の研究の根底を成しています。フェミニズムやクィアスタディーズのような差異に基づく研究を行うためには、基盤となる理論的なビジョンが必要だからです。にも関わらず、日本では授業の前提として理論が組み込まれていることがほとんどありません。この点が日本と英語圏との違いだと言えるでしょう。また、ディコンストラクションを経て文化研究にも大きな転換が起こりました。70年代以前は、例えば「小説」や「詩」などのジャンルを定め、その枠組みの中で対象を分析するという研究が主でしたが、この方法ではジャンルという枠組みに研究が限定されてしまい本質を見失ってしまう危険性があります。70年代以降になると「ジャンルというアイデンティティそのものが物事を狭めてしまう」という点が注目されるようになり、モリスンのように言語論を用いた表象研究を行う作家が登場するようになりました。70年代以前の伝統的な評論を学ぶことや、古い文芸批評を否定するわけではありませんが、その美学に拘り過ぎてしまうと視野が狭まって見えなくなるものがあることに注意しなければならないと伝えたいです。

―――先生がゼミや講義で取り扱う文学作品はどのようなものがありますか。

アメリカ文学は白人の文学だけでは語り切れません。僕の授業を受けた人はわかるかと思いますが、僕は頻繁に黒人文学を取り上げます。アメリカ文学の既存の体系を見直すことが必要だと考えているからです。

―――先生の研究対象である「アメリカ」という国について、先生の考えをお聞かせください。

多くの人がアメリカに「自由」のイメージを持っていると思いますが、実はアメリカは「夢の国」なのかもしれません。これまで語られてきた伝統的なデモクラシーが成り立つためには奴隷制度が必要だったと考えることもできます。自由な人々が存在するためにはその自由を保証する犠牲者が必要だということですね。そして、最も大事な点はデモクラシーや人種差別の主体がかつて白人男性だけだとされていたことです。これらの点から考えると、アメリカは「こうあるべき」という理念に基づいて形成された国家であり、その一方で現実には大きな矛盾孕んでいるため、絶えず民主主義の実現に向けて努力しなければいけないという性質があることがわかります。わかりやすい例は公民権運動であり、人々がどうしたら人種的平等が達成できるか考え始めた重要な出来事だといえます。さらにフランスで五月革命が起こり、デリダやフーコーがアメリカに現代的な思想を持ち込んだことも大きな刺激となりデモクラシーが自由や平等を声高に唱えるだけで実現するわけではないことが理解されるようになってきたと思います。

―――なるほど、「自由」というイメージが先行しすぎていることに慎重にならなければいけないのだと感じました。近年盛り上がったBLM運動についてはどのようにお考えですか。

これはまだ人種差別が残っているから起こってしまった出来事です。僕が留学をしていた90年代の始め頃はフェミニズムやジェンダー等差別に関するトピックの先鋭的な研究が行われており、少なくとも学界では相手を下に見た上で尊重する「リベラル」な態度に敏感で、差別はほぼ見られませんでした。ですから差別に基づいた暴力的な事件とBLM運動が改めて起きてしまったこと自体が僕にとって大きな衝撃でした。アメリカは、もちろん都市型のインテリだけではなく大規模な農業を経営する農民や都会で働く会社員で構成される社会でもあります。BLM運動が起こったことで、学界と一般社会での人種差別に対する認識はここまでかけ離れていたのかと強く実感することになりました。

Massachusetts州NorthamptonにあるSmith Collegeにて

―――アメリカに残る人種差別、そして現在のアメリカ社会について、先生が思うことを教えてください。

アメリカでは、90年代半ばに差別問題を解決する理論が出揃い、ITバブルを背景に社会全体が本格的に保守化に舵を切ることになります。そしてこの動きは同時多発テロによって加速し、アメリカ人の団結が叫ばれるようになりました。保守的な社会は人種差別の解決とは相性が悪いですよね。一方で人種問題に関して事態が良い方向に動いたのはオバマ政権の発足の際でした。とはいえこの動きに反感を持った人々がいたことは確かで、その結果がトランプ政権の誕生に現れてしまったわけですが…僕は実はヒラリー?クリントンが当選するだろうと見ていました。でも、甘かった。文学の教授をやっているアメリカ人の友人になぜ彼女は選ばれないのかと尋ねたら「She is weird.(彼女は変だ)」と一蹴されてしまいました。もっと言えば、オバマ元大統領の文化的アイデンティティは白人に近く、もし彼が生粋のアメリカン?アフリカンであれば当選は実現しなかったのかもしれません。アメリカを手放しで自由の国だと見なすのではなく、その性質はシニカルであるいうことを認識して考えることが重要です。

おすすめの本、メッセージ

―――先生ご自身について、先生のご研究についていろいろと伺いました。ありがとうございました。最後に、東京外大生に読んで欲しいおすすめの本を教えていただけたらと思います。

著名な英米文学作品はなるべく網羅することを推奨しますが、中でもトニ?モリスンの小説やエッセイは読んでおくといいのではないかと思います。具体的には『Playing in the Dark』(『白さと想像力』)や『The Origin of Others』(『「他者」の起源』)などをおすすめします。彼女の作品は人種と性差に基づいた問題意識を前提としており、これらを読むことで現代アメリカのエッセンスを軽薄ではない形で経験することができます。なぜ「軽薄ではない形で」と強調するかというと、近年のBLM運動を機に世界的に人種問題への関心が高まったと同時に、人種問題をまるでおもちゃのように簡単に扱う軽薄な発言や行動も見られるようになったからです。人種差別は言語の問題です。言語と言説の自覚的使用と研究によって象徴体系が変わっていくことを待つことでしか根本的な解決には至らないと僕は考えています。また、「人種差別が悪だ」と無自覚に主張することも、ある意味で差別的なかつ暴力的な立場だといえます。弱者が正義だという論理だけで正義が実現するとは思えません。『法の力』でデリダが主張したように、正義が正義として絶対視される場には暴力が潜んでいるということをよく理解しておきたいと考えています。

―――最後に、学生へひとことお願いします。

最近「多様性」という言葉をあらゆる場面で目にします。学者として常に考えていることは、その実現のために何ができるかということです。例えば「多様性を認めない」という立場を排除したら、それは真の多様性の実現と言えるでしょうか。何かを排除すればそれは二重、三重の排他的な構造を生み出してしまうことになります。もっと言うと、「多様性ファシズム」に飲み込まれる危険性もあるわけです。繰り返しになりますが、多様性の可能性を知る一歩としてぜひトニ?モリスンやアフリカン=アメリカンの作家たちの作品を読んでみてください。

インタビュー後記

この記事を読んでいただいた皆さんの中にもそう感じる方がいらっしゃるかもしれませんが、今回のインタビューを経て、私がこれまで漠然と抱いていた自由や平等に象徴される「アメリカ像」は現実とはかなり色を異にするものだということに気が付きました。最早自由を求めるだけではなく、自由を成立させるものは何か、という部分に目を向けなければいけないのですね。また現在多様性という言葉が、全ての人間の個性を尊重し認め合うための合言葉のように使用されています。が、実際私たちは無意識のうちに「理解できるもの」と「理解できないもの」を分類し、その上で自らの常識に即する「理解できるもの」だけを多様性として受け入れようとしていると感じます。加藤先生のお話を聞いて改めて現代社会について意識的に考えるようになりました。皆さんにとっても、なぜ人種差別自体や多様性という言葉が「問題」とされるのか、「問題」を「問題」として存在させるものは何か、再考する機会になれば本望です。

堀 詩(言語文化学部 英語専攻2年、広報マネジメント?オフィス学生記者)

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